父の日に思う

父の日に思う

父の日について

「父の日」は、1909年にアメリカのワシントン州スポケーンのソノラが、男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけだと言われています。

アメリカが発祥なんですね。ちなみに、母の日もアメリカが発祥です。最初の父の日の祝典は、1910年6月19日に行われました。当時すでに母の日が始まっていたため、父の日も有るべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して父の日が始まりました。

1916年、アメリカ合衆国第28代大統領ウィルソンは、スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、これによって父の日が認知されるようになりました。

そして、1966年には、第36代大統領ジョンソンが、父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日に定めました。その後1972年になり、アメリカでは正式に国の記念日に制定されています。

母の日の花がカーネーションなのに対し、父の日の花はバラです。
これは、ソノラが、父の日に父親の墓前に白いバラを供えたからです。もしこの時に、紫陽花だったら、父の日の花は紫陽花だったってことですね。

父の日に思う

父との思い出

さて今回のテーマが「父の日」ですから、これまで、あまり公開したことのない私の父について書いてみようと思います。

私の父は、大正15年に香川県の、かなり大きな豪農の家に、10人兄弟の4番目の三男として生まれました。高校卒業後、東海電波専門学校に進学し、レーダーなどの研究をしていたようです。

ちょうど、太平洋戦争の最中でしたので、研究のため、学徒出陣は免れ戦争を生き延びることができたようです。ちなみに、父の兄(つまり私の叔父は)出征し、グアム島で戦死しています。戦後、アメリカから遺品が返されてきた話が昔の新聞に載っていました。

終戦後、父は首席で大学を卒業し、そしてそのまま、日本鋼管に就職します。その後、直ぐに同郷の母と見合いをして結婚します。当時、花形であった造船業の有名企業、日本鋼管に勤めていましたから、すごくたくさんの給料をもらっているだろうと、母は勝手に思っていたようです。ですが、いざ結婚してみると、給料のほとんどを実家に送金していて、靴下も1足しかなくて驚いたと言っていました。

当時は、家族で働いて、家を盛り立てるのがどの家族においても当たり前の時代でした。
さて、結婚して1年後には女の子(つまり私の姉)が生まれるのですが、出産時のトラブルで、脳に障害を受け、結局、知的障害者として生まれることになります。

その6年後に、生まれたのが私で、父がとても喜んだと聞いています。男の子だったことと、普通に生まれてきたことがとにかく嬉しかったようです。

その後、日本は高度成長に突入し、父は、いつも家に帰ってくる時には、夜遅くで、あまり、話すこともありませんでした。

父との記憶は3つだけ

残念ながら、私には父との思い出の記憶は、じつは3つしかありません。

私が小学校1年の時に、母が入院し、その時にお寿司屋さんに連れて行ったもらったことと、小学校3年生の時に、伊豆の民宿に泊まりに行った記憶、そして、小学校5年生の時のお正月に新築した家で餅つきをした記憶だけです。

なぜなら、私が小学校5年生の5月に父が交通事故で亡くなったからです。この時父は、46歳でした。
突然の出来事でした。父が、夜仕事から帰宅する途中に、酔っ払い運転の車にひき逃げにあって即死したのです。

当時のことは今でも鮮明に覚えていますが、夜中の3時くらいでしたでしょうか突然、母親に起こされ

「お父さんが死んだ」

こう告げられました。

小学校5年生ですから、なんのことかよく分からず、ただ、ボーとしていた記憶があります。
あまり、悲しいという記憶もなくただ、いなくなったそんな感じでした。

父の日に思う

父の最後の姿は苦痛に満ちていた

医師によって、父の死亡が確認され遺体が、午前中には家に戻ってきたのですが、父は、ひき逃げで頭を轢かれて即死でしたから、脳が飛び出し、ひどい状態で戻ってきたのです。

頭の横に、白い布で包が置かれていて、そこに、飛び散った脳漿が集められて入れられていました。家に戻ってきた父の遺体の顔は、苦痛に満ちて引きつっていて、その顔は、今でも記憶に鮮明に残っています。

顔に血痕が飛び散り、目は見開かれ、口は苦痛に歪み、恐ろしくて、たった、一度しか見れませんでした。
その後、司法解剖が行われ、もう一度戻ってきたときは、苦痛の表情も穏やかなものに直されていて、すごくホッとした記憶があります。

火葬にされた後、骨を拾うのですが、全身の骨のほとんどが骨折をしていて、ボロボロだったのを、一生懸命拾って骨壷にいれた場面も未だに鮮明に蘇ってきます。

そんな経験をしても、お通夜やお葬式の時も、ほとんど感情を出すことなく淡々と、受付を手伝ったりして、かえって来場者の涙を誘っていたようです。お葬式は、盛大に行われ(当時造船業は花形でしたから)すごい数の来場者だった記憶があります。

その後、ひき逃げの犯人が捕まりましたが、特に、憎いとかいうこともありませんでした。
もちろん、裁判とかも傍聴しましたし、母が、加害者に詰め寄って、
「お父さんを返して」と言っている姿をやはり、ボーッと眺めていた記憶があります。

こうして、10歳で私の父親との関係は終わってしまいました。

父の日に思う

父を早くに亡くしたことで父親像が無い

普通であれば、この後、思春期を経て父親との対立があり、それを乗り越えることで自分の中に男性像や父親像が出来上がっていくのですが、残念ながら、私にはその経験がありません。

では、どこから父親というイメージが出来上がっているかというとそれは、戦国時代の武将の生き方からなんです。ですから、私の父親像は、族長なんです。

自分の家族(家族も族ですから)のために、豊かになり、そして、自分の内に入ってきた人は、全力で守り育てる。一族を統べ、全責任は、自分が負う。そして、自分の配下と家族を豊かにしていくことが族長としてのの使命である。そしてこれが、父親のあり方であると・・・

う~ん、こうしてみると、やっぱり少し変ですよね。歪んでますよね。

その父も、亡くなってもう40年以上が経ちます。気がつけば、父親の年齢をゆうに超えてしまっている自分が居ます。毎年、父の日が近づくにつれて、こういったことを思い出すのです。

それにしても日本では、母の日に比べて、
なぜか父の日の印象が薄い薄い・・

お父さん頑張れ・・・

関連記事一覧

error: Content is protected !!